原立寺の歴史

 原立寺の始まりの天文3年は織田信長誕生の年にあたり、当初は真言宗のお寺で、弘法寺(弘法大師・空海の弘法と書いてぐほうじと読む)と称しました。甲州(山梨県)武田信玄と越後(新潟県)上杉謙信の、世にいう信濃川中島の合戦(天文、弘治、永禄にわたる間の戦い、この時代を俗に戦国時代という)の折、武田家二十四将のひとり原美濃守虎胤が信濃善光寺の東方長沼に砦を築き、これを守る任に着き駐屯した折でした。
 弘法寺の住職・栄久法印(法印とは僧侶の呼び名のひとつ)と法論の問答(お互いの教えである真言宗と法華経のこと)を戦わせ、原美濃守が法華の教えを以って真言の教えを負かしました。栄久法印は問答には負けるが、法華経の教えと原美濃守の法華経信仰に感動し、自ら法華の僧「安全院日隠」になり、弘法寺を法華の寺に改宗しました。改宗年次は定かではなく、永禄年間と記されているので、永禄4年頃と思われます。開山より480年位、改宗より450年位となります。  山号は栄久法印の栄久から栄久山とし、寺号は原美濃守が法華の寺として創立したとの意味で原が立てた寺、原立寺としました。住職が腹をいつも立てている「腹立て寺」ではありません。
 明治39年、長沼(当時は長野市ではなく長沼村)から現在の地・妻科に移転し、住職歴代は現在27代(世)となります。19世・教学院日邃上人は白川月好と称し、俳句の小林一茶門下の俳人にて長沼十哲の一人です。
 昭和40年には「つましな保育園」を開設、住職は園長と兼務しています。
 お寺では、26世(先代)日亀上人が湯川日淳上人の御指導以来「唱題行(法華経の題目「南無法連華経」を唱える)」に専心しています。毎月1日から5日までは檀信徒も加わり、早朝、唱題行を修行し、また、第3日曜日には唱題求道会(信行会)をおこなっています。

先頭へ戻る

原立寺の災害と復興

延宝3年(1675)〜水害

上水内郡長沼村(現長野市)は千曲川流域にあり、たびたびの洪水におそわれて本堂・庫裡の全てを消失する。

延宝5年(1677)〜復興

長沼藩・佐久間家城代家老・岩間市郎左工門尉清正の寄進により、消失した本堂・庫裡、ご本尊・仏具を復興する。

明治33年(1900)〜明治39年(1906)〜移転

元禄以来の度重なる水害により長野市に移転。まず明治33年に善光寺近隣の城山の民家に、そして39年に現在の妻科(仮の建物)に移る。明治40年、25世・日舜上人の代に祈祷堂を建立、本堂・庫裡は中古の民家を移転設置。大正の初めに祈祷堂を本堂とする。

昭和38年(1963)〜本堂再建

26世・日亀上人の代に新本堂再建、庫裡建替。祈祷堂を移築し客殿とする。

平成3年(1991)〜客殿・庫裡再建

先頭へ戻る

原立寺開基原美濃守虎胤について

 川中島の合戦は天文二十二年~永禄七年の間に五度の合戦が行われ、原虎胤は、内三度合戦に望みました。
 元々、原虎胤の先祖は下総千葉氏の臣下名門原氏である。原虎胤の父友胤の時代には、千葉氏重臣として臼井小弓城(現千葉市)を任されていたが、一五一七年十月、足利義明が真理谷氏と共に小弓城を攻めた小弓合戦で領地を追われ、もはや千葉氏にはそれを回復する力なく、原親子は甲斐の武田信虎(信玄の父)を頼った。
 父友胤は、足軽大将として信虎に召抱えられ三千貫を領した、この時、虎胤は十七歳で信虎より三歳年下であったと考えられる。この後親子は数々の活躍があり武田家中での地位を確立した。
 父君友胤亡き後(没年不明)一五二一年十一月、飯田河原の今川勢との合戦で、武田勢は苦戦するが、原虎胤が今川氏の総大将・福島正成を討ち取り多大な功績を上げ「美濃守」を賜る。
 一五四一年武田晴信(信玄)が武田家々督を継いでからも、虎胤は豪傑として「鬼美濃」と呼ばれ活躍、武勇は諸国で恐れられた。特に城攻めに長けており、落城後は修理がいらないと言われるほど城攻めを得意とした。四十五歳(一五四一年)の時には、足軽大将と成り三千貫を領し、騎馬三十騎、従兵百人の軍勢を率い武田軍の中核を担った。
 一五五一年十月小笠原氏の一族平瀬八左衛門の平瀬城を四日間で攻略、手柄により晴信(信玄)より平瀬城主を命じられる。一五五三年十二月日蓮宗(法華宗)と浄土宗間の勢力抗争の際、法華宗の立場で法論に加担した事を咎められ「甲州法度之次第(宗派に偏る事を禁ずる)」に背いた疑惑により小田原へ追放される。
 小田原・北条氏康は「渡辺の綱(源頼光の四天王)にも勝る」と原虎胤を大歓迎して迎えた。後一五五四年二月武田・北条・今川の三国同盟の折晴信(信玄)に許され甲斐に戻る。一五五九年二月武田晴信が出家剃髪し信玄と戒名の折、真田幸隆らと共に出家剃髪し清岩と号した。
 一五六〇年もしくは一五六一年頃(永禄三年~永禄四年)長沼真言宗弘法寺の住職栄久法印と虎胤が法論の末法華宗(日蓮宗)に改宗され栄久山原立寺と成ったと思われる。開山上人栄久法印は安全院日隠と戒名、原立寺開山第一世となり、原美濃守虎胤は原立寺開基檀越となる。
 一五六一年六月、上杉謙信の小田原攻めの隙をついて信越国境の要衝・野尻割ヶ嶽城攻略の戦で大きな負傷を負ったとされ、以後武田の戦に原虎胤の名は見られなくなる。同年九月十日の第四次川中島の戦いの際には、傷がまだ癒えていない事と老齢を理由に、甲斐の留守部隊を預かっていた。
 一五六四年(永禄七)三月十一日、躑躅ヶ崎館近くの屋敷にて病死。享年六十八歳。生涯の出陣三十八回、感状三十八通、全身に受けた傷五十三箇所。
 原虎胤の墓所は「千曲之真砂」「歴代古案」に、原立寺本尊の下に遺骨を納む、床下に石塔ありの記述があり、長沼の地にお墓が存在した可能性が高い。

→ 原美濃守虎胤之墓の写真 (施設ページへ)

 原虎胤の子孫は三男一女あり、長男は横田高松の婿養子となり、横田康景。次男原盛胤、三男原重胤、長女氏名は不明、初鹿野忠次へ嫁ぐ。外にも子孫は存在の可能性がある。

先頭へ戻る

原美濃守虎胤の逸話

原美濃と三略の強弱両義(弱きは強きに勝つたとえ)

 武田信玄の家臣に原美濃という侍あり。顔、体つきはいかめしく豪傑であり、戦いの手柄は数えきれない程である。その武勇は他国にも聞こえ、昔なら渡辺の綱か鎮西八郎為朝にも勝る侍であるのに、何故か恐妻家であった。
 原美濃答えて曰く、我強き者に会いては心が鬼とも熊ともなるが、女房の弱弱しい風情にて我に向かうとき、ナメクジの如く攻め立てられるは、最も苦手とするところである(豪傑も女人は苦手であった)。

原美濃、法華信仰のために禄を失う

 武田信玄は、原美濃が日蓮宗にて熱心にお題目を唱えるを諌め、たまには念仏申せと望み給う、原美濃答えて曰く。日蓮宗の作法にて念仏をば唱えましょうと。信玄はそれでもいいから、ぜひ念仏を唱えろと再三無理強いをした。
 原美濃、腹立たしく思い、題目(南無妙法蓮華経)となえて仏に成るぞ、念仏申して地獄に落ちるぞ、愚痴なる心ではなく主人の望みとて、我が頼む宗門がきらう念仏を唱えては、侍道に懸けてもあるまじき事と怒り、信玄の機嫌を損ね小田原に浪人する。

情に厚い原美濃

・ 合戦の際傷つき倒れている敵将を見つけると、自ら肩を貸し敵陣まで送り届け、再び戦場でお目にかかろうと温情ある行動は、情に厚い武将として有名となる。

・ 小田原・北条氏康に身を寄せていた一五五四年、北条と今川の合戦富士郡梶間(賀島)に於いて北条方として参戦の際、今川と武田は同盟を結んでおり、古巣の武田は敵方であった、原虎胤は今川・武田方と対峙し睨み合いの中、武田方・小山田信茂は兜の立ち物で原美濃と分かるので、「美濃守の敵前での馬の乗り様をよく見よ」と仕掛けに乗らずにいたところ、近藤という武田方武者が原美濃に馬を寄せ斬りつけた。原美濃は峰打ちでこの武者を落馬させた。北条方の武者が首を取ろうとしたとき、その者は甲州での顔見知り故、許してやってはくれぬかと言って、放免し引き上げさせた。「鬼美濃ながら、鬼の眼にも涙」として敵味方で評判になった逸話である。
 原美濃は、武田信玄初期の「甲陽の五名臣」と称され戦国の時代を駆け抜けた武将であった。

先頭へ戻る

日蓮宗総本山 身延山久遠寺
池上本門寺

日蓮宗新聞社