長沼時代の本堂は方六間と「長野県寺院明細帳」に記載あり。退破移転後、長野市城山時代、現在地(妻科)共に本堂・庫裡兼用にて、25世・日舜上人が祈祷堂を建立。26世・日亀上人が発願し、昭和38年、方七間回廊付き鉄筋本堂を建立。昭和55年、宗祖七百遠忌報恩事業として、寄棟銅板葺屋根架及び内外装等整備を完了した。
平成元年4月、建設委員会を結成し、同年5月より5年3月までの浄財勧募により、建物は平成3年4月20日工事完了、平成7年11月19日、落慶法要を行う。
願満堂。もと摩利支天堂なるも、25世・妙修院日舜上人が守護神として身延山洗足願満稲荷大菩薩を勧請す。この後、祈願の信徒多し。
延宝年間(1673~1681)長沼城主・佐久間備中守家老・岩間市郎左衛門尉清正、退破せる原立寺を復興し、中興開基となる。天和2年没。法名は源立院法栄日清居士。歴代上人遺言を伝え、本堂裏に墓碑を安置す。因みに幕末開国の先覚者、佐久間象山先生は、元長沼藩士岩間氏の末裔である。
長沼墓所は原立寺発祥の地で、約50坪の敷地に整地30区画の規模。原立寺の農地は同時に約2800坪あったが、敗戦の結果、昭和22年に全開放となった。
平成22年4月建立
元禄年間(1688~1704)吉総代・細野九之丞は日頃、七面大天女を信仰し、隣村との境界争の際、解決の暁には仏堂を建立すると約束し、誓言の通り建立す。村内五穀豊穰のため七面大天女を勧請する。当山より東北約8キロの大字吉にあって、吉の原立寺檀家10軒にて奉祭維持せるも、後に吉区の外護を得て毎年10月18日に逮夜祭、19日に正当祭を営む。宗教法人法施行以来、宗教法人原立寺の境外仏堂となっている。